07. 施設 ~ 喫茶去(きっさこ) ~

~ 喫茶去 ~ どうぞお茶でも召し上がれ

『喫茶去』この言葉には実は何の含みも有りません。それこそがこの言葉の伝えたいことです。どのような相手にも、それが旧知の友であっても、初めての相手であっても、何の含みも持たず『(まずは)お茶でも召し上がれ』という気持ちで接する事が大切だという教えです。相手の身分などで応接を変えるなど以ての外ということです。近頃は『おもてなし』という言葉が独り歩きしていますが、VIP待遇などの特別扱いしては喫茶去の精神に反することになります。

お寺という施設はそうした気持ちで有らねばと考えています。檀信徒の皆様は勿論のこと、初めて寺を訪ねる方であっても同じように接し迎えられる施設であるように、私達は心掛けております。

光明寺本堂は天災により焼失したものが安政三年(西暦1856年)に再建され現在に至ります。地上高約10m、正面から見た軒幅が23mを超える大きな瓦屋根の本堂が南面して建てられており、天気の良い日はまるで青空にそびえる富士山のような威容を見せてくれます。

本堂が再建された安政年間は「安政の大獄」という出来事に代表される幕末の動乱期にあり、また安政東海地震から始まる南海トラフの連動地震や台風など自然災害が打ち続いた時代でした。そのような厳しい時代にあえて築かれた本堂を現在に伝えている事は代々の檀信徒と歴代住職の強い意志の現れだと言えるでしょう。幕末から明治初期の住職には幕末の偉人との浅からぬ縁を持つ者もおり、寺には山岡鉄舟の自筆の書などが残されています。

なお特徴的な格天井(ごうてんじょう)の本堂広間は100畳を超える広さにエアコンが完備され、足腰に自信の無い方でもご供養・儀式に参加できますように150席あまりの椅子を用意しております。本堂ではご供養、儀式の他にも坐禅会やヨガなどの体験行事や研修行事なども行われ、より多くの方々にお寺を身近なものとして体験して頂いております。

供養堂は第十六世渡邉徹宗和尚の手により平成十七年十一月、第十七世渡邉徹範(当時副住職)の晋山式に併せて落慶いたしました。安置されたご位牌を守護する本尊には十一面千手千眼観自在菩薩が置かれ、すべての衆生をも漏らさず救済することを願いながら、光明寺の檀信徒の霊を慰めております。また位牌棚の上には十六羅漢の像を祀り衆生の導きを願っております。

広さ20畳と10畳のふたつの書院は、法要の後のお斎(おとき)の場や法要を待つ間の懇談の場として利用できます。他にも会議や研修の場としてもご利用いただけます。定員は有りませんが20畳の広間は10名から30名ほどの利用、10畳のお部屋が2名から15名の利用に適しています。

ちなみに書院とは元は学校などの教育施設を指しておりますが日本では書院造という言葉に代表されるように部屋の様式を指す言葉となっています。室町時代ごろからお客をもてなす場として華道や茶道の影響を受けながら様式が整えられて行きました。

光明寺においても書院がその意に叶うように、来訪者が寛いで時を過ごせるように常に準備しております。

光明寺境内東側には小さいながら回遊式の枯山水庭園が造られております。光明寺開山であられる佛満禅師大喜法忻大和尚の示寂より650年の遠忌にあたる年、第十七世住職渡邉徹範の発願により作庭されました。石のみで山水の自然を表現する枯山水の様式を取り入れつつ歴代住職により育まれた牡丹の花を添え、水墨画のような枯山水に現世の持つ色をあしらいました。この回光返照庭には四季それぞれの移ろいを感じとれるよう松や紅葉など美しい木々が配されています。

庭の名前となる「回光返照」とは禅宗の言葉で、「内なる自分に光をあてて照らしなさい」という意味です。そこには逆説的に「自らの周りの出来事に目を奪われて自らを見失ってはいけない」という警鐘も含まれています。回光返照庭は、『無垢の自分』に見立てた枯山水の庭を回遊する事で『自らを省みる姿』を表現し、昼には周囲に配した牡丹をはじめとする美しい花や木を『周りの出来事』に見立て現世の世界観を表現し、夜は深い闇に枯山水(『無垢の自分』)をライトアップ(『回光返照』)することで仏教的宇宙観を表現しています。

枯山水は臨済宗の名刹である京都龍安寺の石庭が特に有名ですが、その様式は平安時代に考案されて以降禅宗寺院の庭園造作において発展し、数多くのお寺で枯山水のお庭が造られて参りました。仏教的世界観や宇宙観が表現され、自然と向き合い自らの存在と一体化する事で無の境地に至る事を目的として造られています。光明寺の「回光返照庭」もまた自由な発想で心を落ち着かせる厳格な空間を追求して作庭されております。

境内西側に鐘楼と並び立てられている地蔵堂には「光明寺子育て百壽地蔵尊」と呼ばれるお地蔵さまが安置され毎年8月24日の地蔵講の法会において住職による供養が営まれます。

地蔵菩薩は、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六道(ろくどう)すべての世界において衆生を救済する菩薩であり、六地蔵は六道世界に配された地蔵菩薩の分身であると言われます。地蔵信仰は古くからの民間で信仰である道祖神信仰と融合し「境の神」としても崇められるようになりました。お墓の入り口近くに六地蔵が祀られるのも冥界と現世の境である事からであり、墓参りに訪れた方が道に迷わず現世に戻れるようにとの意味が込められています。

また地蔵菩薩は「子供の守り神」としても信じられており、その法体が子供の姿を模している事もそうした理由からと言われております。同じ理由からこの世に生を授かることがかなわなかった水子の御霊を慰める仏様としても信仰されています。

光明寺にとって縁浅からぬ足利尊氏もまた地蔵菩薩を守り本尊として深く信仰しておりました。

境内の南西隅に立てられております鐘楼は、江戸時代中期宝暦六年(西暦1758年)に創建されました。江戸幕府九代目家重公の治世の事です。

その容貌は板張りの袴腰(鐘楼の一階部分の形、台形をしたその様が「袴」に似ている事からその名が付けられています)の上に吹き出しの鐘楼をのせた形をしており、袴腰の上部の床には高欄(手摺り)をめぐらしています。屋根は入母屋造りの桟瓦葺きとなっており、梵鐘をつるした天井は床から約2.8mの高さとなっており、袴腰内部の天井高よりやや高く格天井(ごうてんじょう)となっています。

柱は袴腰部から吹き出し部分まで通る内転びのもので、袴腰内部では一辺約30cm四方の角柱が、吹き出し部分では直径約26cmの円柱に加工されています。袴腰の東面に入り口があり、土間の内部から階段を登って床張りの鐘つき場に出られるようになっています。

足利市内で袴腰の鐘楼は光明寺の他には鑁阿寺があるのみで、当寺の鐘楼も市の指定重要文化財となっております。なお、光明寺では年末の大晦日および降誕会において鐘楼を開放し、一般の方にも鐘をついていただいてます。

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