01. 縁起 ~ 法灯明(ほうとうみょう) ~

~ 法灯明 ~ 正しいことを頼りとする

『法灯明』とはお釈迦様の教え(法)を道標(灯明)とするという意味です。しかし『人』とは弱いものです。瞼の裏に灯明となる仏の姿を見る事が出来ません。そうした弱い衆生の『灯明』となる為にお寺は創られました。お釈迦様にはじまる仏教の教えは多くの先人の手により磨かれて今日に至ります。その中で仏教に殉じた多くの僧侶により『仏の教え』は、お寺や仏像などにより具現化され現在に伝えられています。光明寺においても開山・仏満禅師大喜法忻大和尚に始まる歴代住職がそれぞれの時代で受け継いだ灯明を形として築き今に残してきました。

臨済宗のはじまり

仏教には様々な教えの宗派があり光明寺は臨済宗妙心寺派の寺院として仏の教えを今に伝えています。臨済宗は達磨大師を宗祖とする禅宗を起源とし慧照禅師臨済義玄により創宗されました。坐禅による修行を通し悟りに至る看話禅が一つの大きな特徴であり、同時に臨済義玄が師の黄檗から印可(悟りを証明する事)を得る切っ掛けとなった「喝」の一声も参禅者を励まし導く叱声として強く印象に残るものです。

達磨大師像

臨済義玄像
(Wikipediaより)

明菴栄西の渡宋

日本における臨済宗は明菴栄西の2度の渡宋を経て西暦1195年に伝えられたことに始まります。明菴栄西は博多に日本最初の禪道場となる聖福寺を開き、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著しその教えを説いてゆきます。その後北条政子の招聘により鎌倉に赴き寿福寺(鎌倉五山三位)の住職となり、西暦1202年には鎌倉幕府二代将軍源頼家の庇護の下で京都に建仁寺(京都五山三位)を建立いたしました。

明菴栄西像
(Wikipediaより)

妙心寺(Wikipediaより)

花園法皇坐像(妙心寺より)

花園法皇と妙心寺

光明寺が属しております臨済宗妙心寺派の本山は京都花園にある妙心寺です。妙心寺は西暦1335年に落飾し法皇となられた花園上皇が花園御所を改め禅寺とすることを発願したことに始まります。花園上皇が落飾されたこの年は後醍醐天皇による建武の新政が始められながら平和の足音がまだ遠く、中先代の乱を切っ掛けに足利尊氏が下野し、新田義貞との間で天下争奪の戦いが始まる年となりました。

花園法皇は師と仰いでいた京都紫野の大徳寺開山である宗峰妙超(大燈国師)の臨終の間際「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ね、後に妙心寺の開山となる関山慧玄の推挙をいただきました。西暦1337年の12月の出来事です。足利尊氏により京都はひと時の安寧を得ておりましたが関東はいまだ戦乱の中にあり、大燈国師の臨終と同じ月には関東統治の拠点であった鎌倉が北畠顕家に奪われ、京都にまたも戦乱の影が近づきはじめた頃です。妙心寺はそのような動乱の時代に開かれる事となりました。

関山慧玄による妙心寺開山

大燈国師から指名された関山慧玄は美濃の井深で修行に明け暮れて開山となる事を渋りながらも、師の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去することもかなわず、西暦1342年に花園上皇を開基、関山慧玄を開山として妙心寺は開かれました。同じ年には、すでに征夷大将軍となっていた足利尊氏が崩御された後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺の創建を発願し、その建築資金調達の為に天龍寺船を仕立てています。天龍寺の創建は臨済宗の僧・夢窓国師の助言によるものと伝わります。

関山慧玄像
(妙心寺より)

白隠慧鶴による中興

やがて時代と共に衰微の兆しを見せはじめた臨済宗でしたが、西暦1700年代の江戸時代中期に登場した白隠慧鶴により再び勢いを取り戻すこととなりました。世間では白隠慧鶴は白隠禅師という名で親しまれ、臨済宗にとっては中興の祖と崇められています。現代日本に伝わる臨済禅の法系はすべて白隠禅師の法統を受け継ぐとされます。
白隠禅師の業績を一言で言い表す事など出来ませんが、民衆への布教に務める中で禅の教えを現した一万点にも及ぶと言われる多くの禅画(仏の教えを分かりやすく描いた絵)を残した事から、今でもその禅画を目にする事は多いかと思います。白隠はそれらの禅画を教化の手段として"禅の境地"を伝える為に用いました。白隠禅師は生涯を通じて四弘誓願を貫き通し、民衆の教化および弟子を育てました。

白隠禅師による禅画(達磨)

光明寺は仏満禅師大喜法忻大和尚を開山として建立されたお寺です。建立の正確な年代は不明ですが、仏満禅師示寂の年が西暦1368年と伝わることから創建はその後10年を超えない間では無いかと考えられます。

開山である仏満禅師は今川氏の出身であり同時代に活躍した足利尊氏と祖をひとつとする足利氏一門です。尊氏は足利氏の始祖・足利義康から数え八代目の直系子孫にあたり、仏満禅師は鎌倉幕府で活躍し足利氏繁栄の礎を築いた足利氏三代目・足利義氏公の長男・長氏から別れた義康七代目の子孫にあたります。光明寺が創建された年代には既に将軍家は三代目足利義満の代となっており、また関東を統治した鎌倉府も尊氏の孫にあたる足利氏満が鎌倉公方の二代目として政務にあたっていました。しかし両者の関係は必ずしも良好ではなく、西暦1379年に幕府内で発生した康暦の政変において鎌倉公方氏満は兵を揃えて京に上ることを企てています。その際に兵を揃えた地が足利で有ったと伝わります。そのように当時の足利は鎌倉府の管轄下にありましたので、光明寺の創建もまた鎌倉府の意向に沿って行われたであろうと考えられます。

仏満禅師は鎌倉浄智寺の太平妙準の法をつぎ、浄智寺、円覚寺、建長寺、浄妙寺の住持をつとめ、晩年は円覚寺続灯庵にしりぞきました。ことに師が住持をつとめた浄妙寺は足利の地と関わりが深く、源頼朝の義兄弟で有り初めて足利に居を構えた足利義兼公(足利氏二代目当主)が鎌倉に創建した極楽寺が浄妙寺の前身でありました。また足利尊氏の弟で有りながら観応の擾乱において戦った足利直義が幽閉され生涯を閉じた寺院でもあります。

師は僧であり戦場で戦う事は有りませんでしたが、師の活躍の場であった鎌倉は幕府が倒された西暦1331年の元弘の乱において壊滅的な被害を被り、その後も繰り返される兵乱のたびに戦禍を被っていました。また師の父と三人の兄も足利尊氏に従い各地を転戦する中で命を失っております。こうした人間界の悲哀を目の当たりにした師が平和の光明を祈念し光明寺を創建されたのでは無いかと考えています。

仏満禅師大喜法忻大和尚像

その後光明寺は数度にわたり落雷の被害を受けて焼失しております。幸いにも鐘楼は焼失を免れましたが、現存する本堂は西暦1856年(安政三年)に再建されたものです。なお鐘楼は西暦1756年に創建された建造物です。袴腰(はかまごし)を持つ姿が特徴であり、足利市の重要文化財に指定されています。しかし残念ながら第二次世界大戦中の昭和十七年に200年の歴史を誇った梵鐘は供出されてしまい、現在の梵鐘は昭和五十六年に鋳造された二代目になります。

明治維新の後になると光明寺には勝海舟と共に「幕末の三舟」と言われた山岡鉄舟や高橋泥舟がしばしば訪れています。それというのも当時の光明寺には鉄舟の甥にあたります小野玄保が第十三世住職・伊澤紹綸和尚の手により養われていたためです。

住職・伊澤紹綸は地域の教育に情熱を注いでおり、新学制が施行されると明治六年には光明寺を仮校舎として開放し、明治九年から5年間は紹綸自身も教鞭をとっています。その後曲折はあるものの光明寺は明治二十五年まで校舎として使用されていました。光明寺が学校としての役割を終えた後も紹綸は寺に私塾を開き地域に住まう子女の教育に努めています。

その後十四世住職に就きました小野玄保和尚は、先述の通り山岡鉄舟の甥で有ると共に高橋泥舟の孫にあたる人物です。明治四十五年にインドの大学に留学し大正六年に帰国します。その後昭和二十三年から二十七年の間北郷村村長の職にもあり常に地域と檀信徒の為に心を砕いておりました。

続く十五世住職伊澤紹徹和尚は牡丹の花を愛でて自慢にしておりました。今ある光明寺が牡丹寺と呼ばれるようになる所以です。足利市の重要文化財である鐘楼の修復および梵鐘の再鋳を行い、第二次大戦後衰退を余儀なくされた当寺の復興に尽力されました。

十六世住職渡邉徹宗和尚もまた地域の教育に心を砕いて学習塾を催し、地域の子供に英語、数学を指導しながら、檀信徒の為にご詠歌の振興に尽力しています。また平成十七年には位牌堂の落慶を果たしています。

光明寺は宗門信徒は無論のこと地域の発展の礎となるべく今日まで続いてきました。それはすべて歴代住職を支援し共に歩いていただいた檀信徒皆様の信仰の賜物であると考えております。

【歴代住職】
 
開 山 勅諡佛満禅師大喜法忻大和尚
二 世 前住虎叟威座元禅師
三 世 前住村翁和尚禅師
四 世 前住法巌泉座元禅師
五 世 前住一峯義座元禅師
六 世 中興妙心第一座懶山仁和尚大禅師
七 世 再中興妙心第一座球巌琳和尚大禅師
八 世 妙心第一座前住曹溪鏡和尚大禅師
九 世 前住妙心量道器和尚大禅師
十 世 前玉鳳義堂肅長光大禅師
十一世 前住妙心準中興桂翁芳和尚大禅師
十二世 前住妙心梅龍芳和尚大禅師
十三世 特贈再住妙心再中興彝山倫禅師大和尚
十四世 特授再住妙心保山保禅師大和尚
十五世 前住妙心壽山徹和尚大禅師
十六世 贈住持妙心壽仙宗和尚大禅師

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