00-1.今月の言葉

12月の言葉

 

叱られる人

 

小林一茶の父は臨終の病床で「ナシが食べたいと」と呟いた。一茶は梨を求め遠い街まで走ったが季節はまだ四月、梨などあろうはずも無い。父の最後の願いを叶えられず一茶は父を見送ることとなった。三十九歳の事である。

”叱り”とは”罰”です。一茶は決して「叱られる人(罰せられる人)が羨ましい」と詠んだのでは有りません。寂しい自らの境遇に対比して「叱ってくれる人」つまり「貴方を見ていてくれる人」の居る事が羨(うら)やましいと詠んだ句です。「羨ましい」という言葉で「貴方を見ていてくれる人の居る日常」が”大切な時間”だと表現しているのです。だからその時を悔いの無いようにと言いたいのでしょう。

私も師で在り父でもある先代・徹宗和尚を二十八の歳に亡くし、失われた時間と残された言葉の数々に寂しさと後悔を抱きました。徹宗和尚は平成18年に六十の若さで遷化し私の光明寺でのつとめも今年十三年になります。

日々の暮らしの中、時には身近な人の言葉が耳に痛い事も在るでしょうが、そんな時に噛み締めたい一句です。

11月の言葉

 

楓葉経霜紅

 

秋の景色を楽しみ、日本語の美しさを感じるに相応しい句です。楓葉(ふうよう)とは楓の葉。その意味は語るまでもなく「楓は霜(寒さ)を経てはじめて紅に染まる。人も苦労を経てはじめて功を成す」と云う事です。

先日ノーベル賞の発表が有りました。今年も日本から吉野彰さんが受賞し話題となっています。しかし吉野彰さんがノーベル賞を受賞するまでの人生には多くの困難が有り、様々な苦しみも有ったに違いありません。

この句に日本語の美しさを感じるのは紅葉を季節の終わりと捉えず、紅の美しさを季節の集大成と捉える所です。吉野彰さんのノーベル賞受賞はまさにその人生を紅に彩る集大成で有ったと言えるでしょう。おめでとうございます。

10月の言葉

 

頭の下がる稲穂

 

五・七・五と俳句の型で詠まれる『稔ほど頭の下がる稲穂かな』という一文は広く「ことわざ」として用いられ、他にも『実ほど頭を垂れる稲穂かな』と異なる読みも伝わります。

「ことわざ」の意味は辞書などで紐解くと、「功成り名遂げた人ほど謙虚である(あらねばならない)」と云う教訓として説明されます。「稲穂」は古に於いて経済基盤を意味し、土地の支配、権力の象徴であり『稲穂が稔る」姿は本来「富裕者」や「権力者」を意味しますが、近代では人として成熟した姿として用いられます。また「頭の下がる」姿は「礼節をわきまえた姿」の例えとなります。

つまりいずれかの道を究めれば「稲穂」のように自然と「頭の下がる(謙虚に)礼節をわきまえた姿になるものだ」という観察を述べた言葉です。似た言葉に「倉廩実ちて礼節を知る」というのも有ります。いずれも人は稔ほど礼儀正しい姿になるという事です。

9月の言葉

 

菩提の種

 

松尾芭蕉によって詠まれたこの句は、彼岸という日に込められた教訓を「蒔く」という身近な言葉で親しみやすく伝えてくれています。

「菩提」とは、お釈迦様の悟り、涅槃の境地を指す「智慧」のことであり、さまざまな煩悩や執着の炎を消し去った静かな心の在り方です。この句は彼岸は心に菩提を育む日であると教えてくれています。

わたしたちの生きる世界は「諸行無常(あらゆる物事が常では無い)」のことわりの中に在り、そこで生きることで様々な葛藤に苦しみます。葛藤は欲や執着から生まれます。そうした欲や執着を軽くするには感謝の気持ちが大切です。彼岸の日、ご先祖様に祈りを捧げ感謝することは心の中の欲や執着を洗い流し、菩提という「やすらぎの境地」を育むことになるのです。お墓参りの時には手を合わせ、ありがとうと感謝の一言を添えてください。

8月の言葉

 

ご先祖を迎える日

 

盂蘭盆会の行事は、祖先をお祀りする行事です。

この言葉は、亡くなられた人の魂が下界に戻り、ひと時、在世にある者と同じ食卓を囲み懐かしむ、そのような時を描いた言葉です。

お盆の起源は定かでは在りませんが、その考え方は『施餓鬼供養』と同じく、三界萬霊(すべての世界の諸精霊)に施しを行う事で徳を積み、それを以て祖先の御霊の安寧を願う行いです。

小さな子供には、『ご先祖様の里帰り』と身近に感じて貰るように教えられていると思います。ご先祖様が迷わず現世に里帰りできるよう灯す火を『迎え火』、そしてまた迷わず彼の世に戻れますようにと灯す火を『送り火』と申します。光明寺でも皆様のご先祖様が迷わずに家族の元に戻れますよう、願いを込めて『迎え火』を灯しております。

7月の言葉

 

お盆の精霊棚と幡

 

『七夕(棚幡)』という行事の起源は様々な説があり、日本で古くから行われていた「禊(みそぎ)」の行事と、中国伝来の「機織りや裁縫の上達を願う」行事が合わさった物であるとか、お盆の時期に精霊棚と幡を飾る棚幡が名前の由来であるなどと言われます。日本に仏教が伝えられて以降七夕の行事は、お盆を迎える準備の行事として行われるようになりました。

正岡子規が詠んだこの俳句は、笹竹に明日への夢や、希望や、願いを込めて短冊を下げる大人や子供の喜びと幸せに満ちた様子を詠んだものです。夢や希望はそれを願う人だけでなく、周りの全ての人たちも幸せな気持ちにさせてくれます。

一年後東京で開かれるオリンピックでは、幼い頃七夕の短冊に夢願い、そしてそれを叶えた人達が日本中の人に喜びを感させてくれると信じています。

6月の言葉

 

一雨潤千山

 

一雨潤千山(いちうせんざんをうるおす)とは、禅語のひとつで『雨は多くの山を潤す』という意味であり、釈迦の教えは分け隔てなく降り注ぐ慈雨の如く、誰一人をも区別することなく衆生すべてに等しく恵を与えてくれるという例えに用いられます。

「一雨」は「雨が降る」という意味。今も昔も、出掛かける時に雨に降られれば面倒で気分が沈む事もあるでしょう。しかしその雨は夏を迎えるにあたり千山を潤す価値ある恵であり、無くてはならない物です。今の自分にとっては不快で面倒を生む出来事であっても、見方を変えればそれも大切な事だと気付ける事がある筈です。

例えれば一雨潤千山の雨は『親の小言』のようなもの、時として煩わしく感じるかもしれませんが、それはすべて「千山」つまり子供に恵みを齎すものだと言うのが一番当て嵌まるかも知れません。

5月の言葉

 

柳は緑、花は紅

 

あるがままの例えです。

「あるがまま」の意味するところはとても深く、自然本来の姿が一番美しいという「賛辞」、また本来の自分を偽り、自分と懸け離れた生き方をする事はするなと戒める「訓戒」、そして肩の力を抜きなさいと「無為自然」を説く「教訓」など様々です。

しかし「あるがまま」とは「何も努力しない怠惰な姿」ではありません。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが説くように「万物は流転」します。社会や身の回りのあらゆることは常に変化してゆきます。柳も花も春には緑を茂らせ花をつけ、秋にはその彩りをしまい込みます。つまり「あるがまま」とは「静」ではなく、変化する日々の中で流れるように生きる「動」の生き様を指しています。自らの欲に囚われ変化を拒むのではあるがままには生きられません。

それは『ポツンと一軒家』というTV番組に登場する家主のような生き方かも知れません。まさに「あるがまま」の生き方ですが、決して安楽な生き様では有りません。

4月の言葉

 

百花春至為誰開

 

「美しく咲き乱れる春の花はいったい誰の為に咲くのか」との問いかけの言葉です。

言うまでもなく、花は自然の流れのまま自らの為に咲いています。決して丹精込めて慈しみ育てた人の為でもなく、その美しさに心振るわせる誰かの為でも有りません。例え野に咲く花を一輪手折り、床の間に飾ってみてもそれは貴方の為に咲いた花にはなりません。

時として人はすべてを手に入れたいと望みますが、たかだか花の心さえ私達は手にする事は出来ません。それでも花を愛で、その麗しさに心を和ませ、感謝する事は貴方の望むがままです。

「花は誰の為に咲くのか」という問い掛けは、そうした空しい欲を悟る問い掛けです。誰の為に咲いたのかなど悩む前に先ずは美しく咲いた花を楽しむ事が大切では無いでしょうか。

3月の言葉

 

とらわれない心

 

人には誰でも五つの欲(食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲)が有ると言われています。それらは人が生きて建設的に人生を送る為には必要な物でもありますが、時に過ぎた欲望が身も心も苦しめる原因になります。

『とらわれない心』とは、そうした『「過ぎた欲」にとらわれない心』という意味です。その為には欲望と決別する深い思慮が必要です。決して「心を空にする」ということでは有りません。「無思慮に物をねだる」様を「無心する」という通り、思慮する場である「心」を空(無)にしては、「欲望の赴くまま」の浅ましい様に苦しむ事になります。「空」にするのは「過ぎた欲」なのです。

「欲」の他にも心を苛む様々な「感情」があります。傲慢、嫉妬、憎悪、執着、時として愛さえ貴方を苦しめる枷となります。『空』とはそうした心を苛む感情を捨てた境地を捉えた言葉です。

施餓鬼供養もそうした心の修養の一つとして行われる行事です。

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